<ボクが通った会社を名刺と共に語る>

last update 26.October.2007


 ボクが通った会社を名刺と共に語ろうと思う。
 長文なのでご注意ください。
 ぜんぜんおもしろくない部分もあると思うけど、
 苦悩と楽観、笑いも取り入れたつもりなのでお暇なときにでもどうぞ。
 どの時点で結婚し、どの時点で祐也が生まれたか、など興味のある方
もぜひお楽しみください。

 いままで6社にお世話になった。
(ここで紹介する名刺の数は10枚)
 勤めて損をした会社は一社もなく、
 すべての会社で苦労し、楽しみ、また学ばせてもらった。

 特に、
 菱洋エレクトロ株式会社
 ノベル株式会社
 シーメンス株式会社
 以上、三社には非常にお世話になり、大いに学ばせて頂いたのでここ
でもう一度感謝したいと思う。

 会社は楽しむべきもの。
 転職はやってみるもの。

 会社員ほど楽な商売はない!?
 しかし会社員ほど搾取される商売もないかな。
(時間・体力・知力・精神力をもっていかれちゃう。ちょっとおカネを
くれるだけで、)

 会社人間になりきるのが苦しいヒトもいるだろう。
 それはたましいを売るのに似ているからだと思う。

 サラリーマンは一度やってみるもの。
 そしてサラリーマンというモノを辞めてみるとハッピーになれる!?

*

 

 菱洋エレクトロ株式会社 1991年4月〜1997年12月

 学生時代、自分の将来のことなぞ特になにも考えられなかったから、
ただぼんやりとサラリーマンになるしかないんだろうなぁ、ということ
で、いわゆるつぶしのきく経済学部を選んだ。ゼミは経営戦略論(マー
ケティング)を選択。そのゼミの友人のいとこが上記会社の人事をして
いて、友人が「いい会社だぞ〜、女の子も可愛いし〜」と言うので、ま
ぁ、なんの縁もない会社よりも誰かが勧めてくれる会社の方がいいかな、
という軽い氣持ちで入社した。ちょうどバブルの最後の年だったので周
囲を見ても就職できなくて困っている友人はいなかった。

 菱洋エレクトロ株式会社は半導体とコンピュータの商社。メーカーで
はない。モノを企業向けに売るのが仕事。

 入社後、配属されたのは三菱半導体をビクターに納める営業部。なに
しろバブル最盛期だから、半導体が売れるのなんのって、15人くらい
の営業部で月間の売上高は10億円くらいだった。利益率は低いがそれ
でも相当な粗利を稼いでいた。で・・ようするに超忙しかった。新入社
員だから仕事も覚えないといけないんだが、社内業務と納品作業が毎日
続いた。朝9時から夜0時過ぎまで、ぶっ通し〜。過労死するんじゃな
いかと思い、両親や先輩方に相談したが誰に聞いても「3年は続けなさ
い」と言うので仕方なく会社へ通った。外食のみ。昼食は中華。夜食は
とんかつ、と決まっていた。(毎日とんかつは自然食をまだ知らないボ
クでさへきつかった)

 ただ、おもしろい(楽しい?)こともあった。それは三菱電機の生産
工場まで半導体を引き取りに行き、その足でビクターの組み立て工場へ
納品するという仕事。時間が勝負なので飛行機や新幹線、どんな交通機
関を使ってもOK。岩手県や熊本県など遠方へも行った。しかし空港を
出てタクシー、工場で半導体を引き取り、そのままタクシー、飛行機と
いう感じなので、熊本の風景などろくすっぽ見ていない。(笑)東京−
木更津を往復する際、フェリーを使ったときは東京湾とは言え海風が氣
持ちよかった。

 入社後1年5ヶ月間、地獄のようなサラリーマン生活が続いた。しか
し、いいこともたくさんあった。優しい先輩も多く大切なことを学んだ。
ひとつ年下で会社ではひとつ先輩の可愛い女性が暇を見つけてはUP2
という表計算のソフトの使い方を教えてくれた。数値を入力すると簡単
に表が作成できるのでよくデータ分析に使った。表作成はスピードと正
確さが勝負。先輩の数々の要望にだんだんと応えられるようになってい
った。「藤川おまえいつ(ソフトの使い方を)覚えたんだ?」と言われ
たのはとてもうれしく今でも昨日のことのように思い出される。

 転機がきた。新しい部署を発足させるので、藤川はそっちに行ってく
れ、という人事異動。やたらとうれしかった。今度は営業をさせてくれ
る。ボクに「モノを売ることができるのか」これはぜひやってみたいと
思った。2〜3年後には売上はあがり、残業はしない、そういう部をつ
くりたいと思った。

 商品は Hewlett Packard のカラー・インクジェット・プリンタ。だ
いぶ営業したがこれがなかなか売れない。その後、CAD用のモノクロ
・インクジェット・プロッタが出て、次にカラー・インクジェット・プ
ロッタが発売された。たとえばビルの配管図をA1用紙にカラー印刷す
ると工事現場で配管ミスが減るんだそう。土木・建築・POPの世界ま
でカラー・インクジェット・プロッタは売れに売れた。

 実はこれが売れる商品になるというのはHPの優れたマーケティング
担当から事前に聞いていたのだった。なぜかボクはいつもヒトに恵まれ
ている。だから情報は一番早かった。情報が命である。一早く行動を起
こせるから。

 社内にプロッタをサポートする技術者がいなかったので、いつのまに
かボクがサポートしていた。納品・設置・設定もしていたし、デモ機の
貸し出しもした。営業アシスタントや業務が仕事をしやすいように氣を
配り、営業部内での情報共有もできるように提案しそれも通った。

 Hewlett Packard の一次代理店は東日本に5社あった。それぞれに営
業部隊があり推定で100名以上の営業が日々HP製品を販売する努力
をしていた。1996年、ボクは年間の売上高が東日本でトップだった
のでHP社長から表彰された。表彰式の当日もボクは一人で社内に残り
仕事をしていた。どうしてもお客様のためにしなければならないことが
あって表彰式には出られなかった。(笑)

 この頃、仕事を軌道に載せることに成功したボクはほとんど残業して
いなかった。18時には退社し、自宅で夕食、その後、ピアノを弾いて
いた。毎晩10時過ぎまで残業している先輩に売上で勝ち、しかも勤務
時間はだんぜん短かった。社内の女性からモテたのは言うまでもない。
二人で映画やコンサート、食事などにもよく出かけた。人生の中で一番
モテた時期だった。

 二年間、Lado International College という英会話学校にも通った。
目標を高く持ち上級のもうひとつ上のコースを卒業した。英会話学校に
一括振込みした金額は80万円だった。自分への投資だと思えば高くは
なかった。

 HPからのご褒美でシンガポール旅行へ行った。楽しかった。翌年も
成績がよかったのでロスとサンフランシスコへ行った。大統領がお忍び
で宿泊するホテルにも泊まった。本場のバスケットボール(NBA) 観戦も
楽しんだ。

 ホテルの部屋でメールチェックできたのも仕事とは言えうれしかった。
HP 200LX という 300g の小さなコンピュータ(MS-DOS 5.0)で快適にメ
ールをすることができた。いまはなき COMPUSERVE - Nifty 経由で。当
時(1997.1)海外でもメールを使えるヒトはまだ少なく、今回の30人の
サンフランシスコ旅行参加者の中でも夜ホテルでガンガン、メールで仕
事をしていたのはどうもボクだけだったようだ。友人からもすごいな、
と言われ得意だった。(^^(日本を出発前、相当調べてあったのよ)

<赤目自然農塾へ行ったら、人生が変わってしまった>

 ある日、大学の恩師である佐治晴夫先生の「宇宙の風に聴く」を読ん
だ。感動した。天文学の先生であり、宮沢賢治の研究者でもある。本の
最後に書籍の紹介があって、その中に川口由一氏の「自然農から農を超
えて」が目に入った。すぐに取り寄せて読んだ・・そうしたら・・結果
的に人生が変わってしまった。(笑)

 読後、奈良県と三重県の県境にある「赤目自然農塾」に電話をした。
ちょうど集合日(勉強会)の前日だったので、翌日、新幹線と近鉄特急
で現地を訪れた。

 小さな棚田を借りて、お米(陸稲)と野菜を育てることに決まって、
久しぶりにワクワクした。ノコギリ鎌の使い方も覚えて、一日中、青空
の下、風を感じながら草を刈り、種を蒔いた。友人との出会いもあり、
その友人はいまでは親友となった。

*

 仕事は楽しいし、先輩は優しいし、HPのヒトたちも優しいし、給料
はまぁまぁだし、一部上場企業だし、なんの文句もない会社だったが、
辞めることに決め、グループリーダーに辞めたい旨、メールした。

「自然農を学びたいので会社を辞めたいんです」と言ったら、自然農を
ご存知なかったので、有機農業との違いから説明した。グループリーダ
ーと部長に話をした後、常務と二回の面談があった。「キミはよいお客
様を多くもち、かつ良い仕入先に恵まれている。これはキミの財産なん
だ。それでも退職したいというのかね?」ボクは「はい、もう決めてし
まいましたので退職させてください。引継ぎはきちんと致します」さん
ざん引き止められたが、結局7ヶ月間もかかって退職した。

*

 なおこ(家内)との出会いは、同じ年の5月。退職したのが12月な
ので、ちょうどつき合い始めた頃、退職したことになる。待遇もわるく
なく安定したいい会社ではあったが、これから一生、この会社で生きて
いく氣にはとうていなれなかった。楽すぎてボケてしまうと思ったから
だ。赤目の友人たちに出会い、いい刺激をもらったこの機会に退職して
おかないと、このままズルズル行ったら余計に退職しづらい状態になる
のがこわかった。

 両親はボクの行動が理解できなかった。父はあきれ、母は泣いていた。
世の中のサラリーマンの多くは仕事がつらく嫌でも会社をおいそれとは
辞めないのに、ボクは会社自体にいわゆる不満はないのにもかかわらず
辞めたからだ。しかもこの時期、赤目で出会った友人の影響でマクロビ
オティックに目覚め、肉、魚、乳製品、白砂糖、白米、添加物、残留農
薬のある野菜は食べないと言い始めた。玄米と旬の野菜を食べたいと。
食べ物が違えば、一緒には住めない。こうしてあっさり家を追い出され
(笑)1998年1月から一人暮らしが始まった。

 一人暮らしが始まると毎月家賃を支払わなければならない。しかも今
月から月給はない。(笑)見る見るうちになけなしの貯蓄が減っていく
のがわかった。引越し当日に圧力鍋を買い、早速玄米生活が始まったの
はうれしかったが収入が必要だということで就職先を考えた。

 

 日本CI協会 1998年3月〜1998年6月

 マクロビオティックは日本発祥の理論。このマクロビオティックの発
祥の地「日本CI協会」が東北沢にあることは知っていた。働くならこ
こ、と決めた。ただし社員募集なんかしていない。仕方がないので履歴
書と自分の思いを文章にまとめて「日本CI協会」(2階)のビルの1
階にある自然食品店オーサワジャパンの店員さんに「この履歴書を2階
の日本CI協会に渡して頂けますか」とお願いした。果たして三日後に
担当者から電話があり、面談後、即採用となった。うれしかった。

 入社後、朝、とりあえず掃除機で掃除することから始まった。ついこ
の間まで、掃除なんかしなかったし、後輩もいたので、氣分よく仕事を
させてもらっていたが、ここでは新入社員だ。だからなんでもしなけれ
ばならない。書籍の在庫管理やイベントの企画、月刊誌の発送作業など
非常にたいへんな仕事が多かった。パソコンをうまく活用し効率化しよ
うと試みた。それでも効率化できる点は少なかった。

 ただ、いいこともいっぱいあった。昼食はまかない。(^^ 当然、マク
ロビオティック料理だった。すばらしい昼食だった。毎日楽しみだった。
月に何度か講演会があった。大森英桜先生や石田英湾先生、佐々井譲先
生などの講演会を企画し、受付係りもやった。だから無料で数々の講演
会を拝聴することができた。これは大きかった。(現在でもご健在なの
は上記の中では石田英湾先生のみ)大森英桜先生は講演会後、毎回宿泊
されるので、ふとんを敷き、また柑橘類がお好きなので毎回それらを用
意した。大森先生の数霊講座はいまでも興味深く、ガンは食事で8割以
上は治るなど、理論の見事さもさることながら実践もすばらしく、数千
人のガン患者を食事のアドバイスのみで救ってきた実績には驚かされる
ばかりだった。

 しかし内部の仕事の効率は依然としてよくなかった。無駄な仕事を省
き、よりクリエイティブな仕事へ転換したかった。その思いがある日裏
目に出てしまった。その日は「リマ先生百歳おめでとう記念パーティー
」の準備の追い込みだった。入社後4ヶ月が経過しある程度の信頼を上
司から得ていたので社内業務については簡単なことならハンドリングさ
せてもらっていた。ある女性から「このチラシ折ってまとめましょうか
」と質問されたので、ボクの判断で「まとめなくていいよ。当日受付で
配布すればいい」と答えた。これが上司の気に触ったらしい。

 ボクはこの日の夕方、上野の奏楽堂でクラシックコンサートだったの
で早めに退社したかったということもあった。当時のガールフレンドで
あるなおこに「今日もしかしたらクビになったかも」と半分冗談で伝え
たら現実になってしまった。

 この日から一週間後、初対面のオーサワジャパンの男性から、はじめ
ましてのあいさつのあと、すごいプレッシャーで「上司の言うことを聞
けない奴には辞めてほしい」というおことばを頂戴した。相手はボクが
辞めたくない、とじたばたするだろうと予想していたらしい。けど、ボ
クにはなんの未練もなかったので、あっさりひとこと「はい」と言った。
だって、これだけ尽くしたのに初対面のおっちゃんから「辞めてほしい
」なんて言われる筋合いはないじゃない、と思ったから。そのおっちゃ
んにそう言わせたのは他ならぬ上司だ。なんだよ、自分で言えばいいじ
ゃん。ちょっとあきれた。

 ご存知の方もいらっしゃると思うが日本CI協会は世界中のマクロビ
オティック愛好家に知られている。辞める数日前、たまたまオーストラ
リアから日本CI協会宛てにFAXがきた。いわく7人子供がいるので
手伝いにきませんか、という内容。これはおもしろいな、と思い、退職
後すぐにオーストラリアへ連絡した。するとすぐに返事がきてお手伝い
さんは見つかったけど、あなたがオーストラリアに来たいのだったら近
くの有機農家を紹介するわ、とのこと。これはいい感じだと思い、すぐ
に飛行機のティケットをとってオーストラリアのメルボルンへ飛んだ。

 オーストラリアの二ヶ月間の旅がいかにおもしろかったか、は以前書
いたので今回は詳しくは書かない。メルボルンの田舎の有機農家で極寒
の中、体調をくずしながらも働けたのはなによりの体験だったし、シド
ニーで犬の散歩と一日二食の料理をすればあとは自由時間という条件で
滞在させてもらったのもうれしかった。マクロビオティック料理できま
す、と言うだけで信用してもらえるのはなんだか簡単だった。ちなみに
macrobiotic directory という本があり、ここに世界中のマクロビオテ
ィック愛好家の連絡先が載っているので、飛行機代さへあれば滞在費は
ほとんどかけずに世界旅行できることもこのときに実感できた。

 

 ノベル株式会社 1999年1月〜2000年1月

 帰国後、相変わらず一人暮らし、収入なし。あまりに暇なのもつらい
ということを初めて知った。なおこも日本で待っていてくれたので、結
婚の準備もしなくちゃ〜と思った。しかし収入なしの状態ではなおこの
お父様になんと言ったらいいのか分からず、結婚したいならばもう一度
会社員になるしかないなと思い、就職活動を開始した。求職雑誌を買っ
てきてノベル株式会社に応募したところ500人以上の応募を勝ち抜い
て採用されてしまった。面接は二回あってなかなか厳しい雰囲気ではあ
ったが、とにかくモノを売る自信はあったので堂々と話したのがよかっ
たのかもしれない。

 入社後、与えられたデスクはブーメランの形をした広〜いデスク。イ
スも大きい。パーティーションもあり、まさに外資系といったスタイル。
仕事のスタイルも結果主義で売れたかどうかだけ。仕事内容は難しくて
も刺激的でかなり勉強させてもらった。この年4月に結婚。10月には
フロリダでの研修旅行に行かせてもらった。これはノベルの世界中のセ
ールスとSE、1500人を一堂に集めてのビッグ・イベント。毎晩、
バンドの演奏付き立食パーティー。ユニバーサル・スタジオも貸切で乗
り放題。アメリカンな豪快な接待に驚いた。ホテルの部屋もダブルベッ
ドがツイン!の広〜い部屋にボク一人。しかもテレビに出てくるような
きれいで清潔で豪華な部屋。窓から見える景色も抜群。

 帰国の日時も各自自由だった。イベント後、三日間の有給休暇を申請
してあったので、友人(社員)といっしょにディズニーランドへ行き、
翌日はNASA見学を楽しんだ。NASAはスペースシャトルの基地。

 帰国後も肝心な売上は伸び悩んだ。みんな苦しんでいたが、一人だけ
キャッシュ(おカネじゃないよ)の売り込みに成功した営業がいた。当
時のボクにあれくらいの営業としての才能があればよかったが、ちょっ
と役不足だった。Windows95 の時代に NetWare はネットワークOSと
して一世を風靡したが、その後は WindowsNT に追い越されていた。そ
れでも directory service は売れそうだった。が、日本ではむずかし
かったか・・

「一月に辞めます」と宣言した。辞める社員は多いのに、ずいぶんてい
ねいにお別れ会をしてくれた。いいメンバーだった。ノベルをはじめ各
コンピュータ会社が恐れていた2000年1月、祐也が生まれ、約束通
り月末に退職した。会社を辞める月は一ヶ月間有給休暇のような感じだ
った。だから助産院での出産にも立ち会えたし、その後のなおこのサポ
ートもできた。祐也を何度もお風呂に入れてあげた。収入なんかなくて
もかけがえのない貴重な時間を過ごすことができた。

*

 さぁ、就職しなければならない。生活費を稼がないと。子供も生まれ
たばかりだし、都会から簡単に田舎へ移住することもまだこの時点では
考えられなかった。ノベルのような外資系では特にエージェントの紹介
で転職を重ねるヒトが多かった。ある先輩からエージェントを紹介して
頂いた。その方はていねいに、世の中で通用する(採用してもらいやす
い)職務経歴書の作成方法を教えてくれた。それを英文に翻訳した。ま
だ Google がなかった時代だったからロボット型検索エンジンとして当
時愛用していた goo でエージェントを検索してみた。「ディレクトリ 
営業」これであるエージェントが引っかかったのでそこに電話をした。
すぐに来てほしいと言われたのですぐにお伺いした。良さそうな会社を
何社も紹介してくれてその中にシーメンス株式会社があった。

 

 シーメンス株式会社 2000年3月〜2002年6月

 やや緊張した面持ちで面接に臨んだ。すでに一社(国内の会社)内定
をもらっていたが、外資系の方がおもしろそうだな、と思っていたので
本気で挑んだ。非常に頭のよさそうな男性が面接官だった。ボクの知ら
ない世界で仕事をしているヒトだ、ということしかわからなかった。「
ちょうどディレクトリの営業がほしかったんだ。他にも FWA, DSLAM な
どのキャリア向けの営業もしてもらうけどできそうですか」と言われ、
なんのことやら言葉自体がわからなかったが「勉強させて頂ければ大丈
夫だと思います」と言った。相手は即戦力がほしかったようでやや困っ
た顔をしていたが、「まぁ、三ヶ月間くらいは教えてやるよ」と言って
くれた。続けて「なぜ一社目を辞めたの?」と聞かれたので、自然農と
いうことばはご存知ないだろうと思い「有機農業をしたかったからです
」と答えた。これは入社後わかったことだが高ポイントだったらしい。
有機農業なんて最もきつい仕事を一瞬でも選んだということが評価され
たらしい。「今日、午前中はなにをしてきたの?」と聞かれたので「映
画を観てきました」(タイトルも伝えた)次に「英語は大丈夫?」と聞
かれたので「大丈夫です」と言った。外資系なのに TOEICの点数も聞か
れなかったのは不思議。「一応後日、人事部長の二次面接があるけど私
が採用と言えばまず間違いなく採用されるので、もしよかったらキミの
いまの内定は断っておいてね」と言われた。このヒトを信じるしかない
と思い、ビルを出た。自宅に戻り、国内の会社の内定を丁重にお断り申
し上げた。

 5日後、二次面接があり、さらに一週間後、内定の通知がきた。晴れ
て新入社員だ。これで4社目。年収はいまでは考えられないくらい高額
だった。多分、一部上場企業の40歳代の優秀な人材がもらっている年
収と同じくらいだったろう。

 入社後、まず驚いたのが、会議が「英語」ということ。(一人でもド
イツ人がいれば、)みんな日本語を話すのと同じように英語を話してい
る。ボクも英語を話さなければならず、菱洋エレクトロ株式会社の40
人の部内ではボクは英語が一番できたが、ここではボクの英語は幼稚園
レベルにも満たないものだった。さらに英文のメール。英作文はまぁま
ぁできるかな、と思っていたが、これも幼稚園レベルにも満たないもの
だった。

 ボクを採用してくれた部長さんは、ボクの英語力にあきれていたが、
ひとこと「勉強すればいいんだ。大丈夫」と励ましてくださった。

 次に困ったのが FWA, DSLAM などの機器のことやキャリアのこと。こ
れも勉強するしかないので、書籍を借りて猛然と読み始めた。勉強すれ
ばなんでもおもしろかった。早くみんなの役に立ちたいと思ってがんば
った。

 入社したばかりで、英語もわからず、技術用語もわからないボクを部
長はドイツに連れて行ってくれると言う。その日の会議で部長はドイツ
に行くと言う。「藤川くんも一緒に行ってみるかい?」と言われたとき
一瞬、答えに困ったが「はい」と答えた。部長の目が「行こう」と言っ
ていたから。

 ドイツでは大事な技術的な会議が多く、なにも理解できていないボク
は何度も部長から怒られた。「集中してよく聴けばわかるよ」と言われ、
分からないながらも集中した。ミュンヘンはいい街で、食事は肉が多か
ったので閉口したがビールもおいしくていい思い出になった。自由時間
ももらって美術館にも行くことができた。

 帰国後、相変わらず英語が上達しないボク。ベルリッツにも通わせて
もらい、いたれりつくせりだった。ボクがどんなに英語がしゃべれなく
てもありがたいことに部長は見捨てなかった。同僚(エンジニア)の一
人も、非常にボクを氣にかけてくれた。とにかく部員たちは英文メール
で重要なことを毎日ドイツとやりとりしているので、それを徹底的に辞
書を片手に読んだ。だんだん文法を理解できるようになった。徐々に英
文メールも書けるようになってきた。メールでらちがあかないときはド
イツへ電話をした。スピーカーフォンで話した。同僚と一緒に。営業と
して言わなくてはいけないこと、技術者が言わなくてはいけないこと、
きちんと打合せをして役割分担して電話をした。最初はものすごく緊張
したが、緊張していても仕方がないことも知った。とにかく間違っても
いいから話さなければ会話が止まってしまうことも知った。

 ドイツから年間6回以上、ヒトが来日した。日本の市場調査が多かっ
た。少なくともディレクトリについてはボクが担当だったので、各社を
ドイツ人といっしょに周りながらボクが通訳した。拙い通訳だったろう
が人間本気になれば結構できることも知った。一週間、朝から晩まで英
語を話していたら、最終日の夕方の会議でオーバーヒートしてしまった。
さっきまで好調に理解できていた英語がまったく聴こえなくなってしま
った。しかも話せなくなっていた。鏡を見たらわずか一週間で白髪が
50本以上出ていた。

 翌日は土曜日。そのドイツ人を箱根に連れて行った。とても喜んでく
れた。数ヵ月後、ドイツのエンジニアが来日したときは鎌倉の大仏を見
せてあげた。とにかく英語はしゃべりっぱなし。いま思えばぜいたくな
時期だった。

 入社後、二年目、ベルリンとミュンヘンに行った。本場のクラシック
・コンサートを聴いた。日本から若いエンジニアを招待し、技術会議で
通訳もした。なかなか苦労したがいい体験だった。夜はレストランでソ
ーセージとビール。お決まりのコースで接待した。週末はドイツ人(男
性)にミュンヘンの湖まで連れて行ってもらった。また、ドイツ人(女
性)とそのお父様といっしょにレストランで食事を楽しんだ。ご自宅に
も連れて行ってもらった。

 しかし辞めなければならないときがきた。肝心の売上が上がらなくな
ってきていた。会社側から事業縮小の通知がきた。そんなことはもうわ
かっていた。2年半ここで働かせてもらってさらに視野が広がった。お
世話になった部長はすでに一年前に辞めていた。お世話になった同僚た
ちに感謝して退職した。五反田の北海道でお別れ会もしてくれた。

 そうそう、退職する前、以前の部長とドイツ人と同僚とボクの4人で
新宿で飲んだ。その頃、ボクはまぁまぁふつうに英会話ができるように
なっていた。そうしたら部長が「藤川くん、英語うまくなったね」と言
ってくれたのがなによりうれしかった。彼はいまセキュリティ関連の外
資系の日本支社長をしている。彼の英語は完璧だが、英語のみならず、
芸術や映画、文学、日本史、地理、物理、数学、宇宙論、あらゆること
に精通していた。実は天才に限りなく近い人物だった。

 2001年8月に家族三人でハワイのオアフ島に旅行したのもいい思
い出。いろんな意味でとても余裕があったこの時期。レンタカーを借り
てオアフ島のいろんな場所で遊んだ。祐也がまだ2歳になる前の頃。

 

 株式会社アイシス 2002年10月〜2003年3月

 和歌山県の義理の姉からなおこに電話があり、アイシスで募集してる
よ、とのこと。アイシスは女性にオーガニックなライフスタイルを提案
する雑誌。ここの編集部で働けるなんてボクにぴったりだ!と思い、即
応募したら、すぐに面接という段取りになり、即採用されてしまった。
ボクの悲劇はシーメンスで高給をもらっていたこと。年収は半減したが、
それでも株式会社アイシスにしてみれば、異例の高給だった。だから入
社前からトラブルを抱えていたんだな。しかも職場は狭〜いマンション
に机を無理矢理押し込んだ部屋。三日目で胃腸がおかしくなり倒れてし
まった。(笑)効率的な仕事をしたいのに電話に追われて何もできない
日が続く。

 ボクの仕事は広告とりの営業。数ヵ月後、飛び込みでソニーのとうも
ろこしプラスティック・ウォークマンの広告を取ったのはうれしかった。
社内でもおめでとう、と言われた。インタビューやカメラマンの手配、
デザイン・コピー・記事作成・編集のすべてに携わった。いい思い出だ。
しかしアイシスの経営は赤字続きだった。先は見えていた。これ以上在
籍するのはいろんな意味で許されないのはわかっていた。多くのすばら
しいヒトたちとの出会いに感謝しつつ早々に退職することになった。

 

 株式会社ネットワーク研究所 2003年6月〜2003年12月

 自分の職歴を眺めてみると、コンピュータ会社と自然食関連の会社を
行ったりきたりしている・・今回も自然系の会社ではなかなか生きてい
けない現実を突きつけられた形で退職してしまったため、やはり、もう
一度、コンピュータ会社に就職することにした。しかし気分がのらない。
職務経歴書をもう一度読むと一社目での営業成績が光ってはいるものの、
それから長続きした会社はなく、実績もパッとしない。にも関わらず、
エージェントを通すことによって株式会社アイシスを退社後12社もの
面接を受けさせて頂いた。そのうちの一社はよさげな会社で面接を受け
たあとにも内心(多分、内定だなぁ、ここでしばらく働くことになるん
だなぁ)などと勝手に思っていたら、結果は不採用。その理由は、藤川
さんの仕事の経歴も人柄も申し分なかったと面接官三人の内の二人は思
い、採用しようと思いましたが、営業部長によると当社で働きたいとい
う強い意欲が感じられなかった、とのことで不採用となった。図星であ
る。まさにその通り。そうか、働く意志がなければ内定はもらえないん
だ、という当たり前のことを思い出した。

 氣持ちを入れ替えての次の面接が株式会社ネットワーク研究所だった。
物流のコンサルティング会社ということだったので、素直に興味が持て
たためボクの入社したいという意欲が伝わったようだ。

 これで6社目。入社後、株式会社ネットワーク研究所と株式会社日本
ロジスティクス総合研究所の二種類の名刺を渡された。そうか二つの顔
を持てるのか〜と思ったら、翌週には同じビル内のロジリンクジャパン
株式会社に出向とのこと。これで名刺は三枚目。このロジリンクで仕事
をすることになった。

 

 ロジリンクは WEB で求車・求貨をとりまとめる仕組みを提供してい
る。日本の物流を担うトラック。トラックはA地点からB地点へ荷物を
運ぶ。帰りに荷物を積んで帰ることができたら利益にもなるしエコであ
る。これを WEB で実現しようという試み。三菱商事など一流の会社か
らの出資を受けており、ユーザも一流の物流会社が多く、強みはあった
ものの、システム完成が遅れていたことと、システム自体が使いづらい
ことなどから、徐々に暗雲がたちこめていたところだった。ソフト制作
はソフト会社に依頼しており、どのような仕様にするかは毎回長時間の
会議が続いた。長いときは8時間以上の会議。しかもほぼ全員(7〜8
人)がヘビースモーカーで会議室はいつも煙で真っ白だった。ボクもす
っかり体調を崩してしまった。

 営業活動はおもしろかった。物流会社を訪問してプレゼンテーション
するのは意外に楽しいものだ。デモをご覧頂いて会員になってもらえる
よう活動した。営業(外出)の予定がなく会議のない日はそれぞれ自分
で考えて仕事をして構わないようだったので技術担当だったボクはセキ
ュリティーなどについて勉強していた。このとき勉強したことが現在の
パソコン相談・設定・修理の仕事に大いに役立っている。

 

 一度だけ、株式会社日本ロジスティクス総合研究所の名刺をもって、
有名なコンサルタントと一緒にコンサルティングの仕事で同行出張させ
てもらった。物流会社双方の言い分を同時に聞いて、それをうまく取り
まとめていく手腕は見事でこれが世のためヒトのためになるひとつの良
いコンサルティングの例なんだなぁ、と素直に感心した。このヒトから
コンサルティングの「いろは」や進め方のレクチャーを電車の中で受け、
この仕事ならやってみたら面白いだろうな、となんだかうれしく、きっ
と将来活かせるんじゃないだろうか、と思って帰路についたのを覚えて
いる。

 ロジリンクの方は予想通り、事業に失敗し、ボクはまたしても退社す
ることになった。しかし、ここでもよい出会いがあり、いまでも友人と
して続いているのはうれしい。


<サラリーマンよ、さようなら!>

 退社後、なおこに相談して、ついにサラリーマンを辞めることに決め
た。自分になにができるかと言えば、やはりパソコンの仕事だった。そ
れで出張パソコン相談・設定・修理と中古パソコン販売の仕事を始めた。

 

 一年後、有限会社イー・プラスの社長とお会いした。ここは小さな広
告代理店。まず秋葉原にオフィスを借りるとのことで、パソコンの導入
・設置を担当した。さらに半年後、大阪にもオフィスをつくるとのこと
でここでもパソコンの導入・設置を担当した。名古屋本社でも一度、大
きなイベントの仕事をさせてもらい、短期間ではあったが広告代理店の
仕事を体験させて頂いたことに感謝。いまでもパソコンに関するご質問
は頻繁に頂戴している。現在までに合計8台のパソコンのご注文を頂き、
ご好評を頂いている。

 なおこは2002年からマクロビオティックのお料理教室などを始め
ていて、二人三脚の生活が始まった。なおこの生徒さんは東京で300
人を超え、ボクのお客さんも二年後に100人を超えたところで、和歌
山へ引越しすることに決めた。少しでも環境のいいところへ移りたかっ
たこと。静岡県の浜岡原発と青森県の六ヶ所村から少しでも遠くへ離れ
たかったこと。さらに関西圏へ行くなら祐也が小学校へ入学するタイミ
ングが祐也のためになるだろうと思ったこと、などが決め手となった。

 

<和歌山にて楽しい!生活>

 和歌山へ引越ししてから、なおこは読売新聞の折りこみ紙「らふぁむ」
の取材を受け、掲載された。カフェえびすで半年間、マクロビオティ
ック・ランチを提供したあと、フリーペーパー Lism に掲載。その後、
リビング和歌山の一面・二面に掲載され、県内ではちょっとした有名人
になっている。ボクもからだの不自由なヒトの職場のネットワークから、
パソコン・サポートの仕事を継続的にもらい、また中古パソコン販売も
好調。家庭菜園も少しずつだが野菜が採れ始めている。ピアノ教室はな
おこもボク(おさむ)も生徒さんがいらしてくださって、かなり楽しい
生活になっている。しかし、目標は自給自足の宿「なかや」(長野県)
の暮らしなので、その夢に向かって、ゆっくりではあるが一歩一歩、
日々歩んでいる。

 ふじかわ おさむ  at 和歌山市 2007. 10. 26


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